2021-04-27 第204回国会 衆議院 地方創生に関する特別委員会 第6号
薩摩でも一緒ですよね。 それに比べて、現代の、殿様と言ったら失礼ですけれども、やはり非常に、何か昔に比べて居心地がいいんじゃないかなという感じがします。 これは一つは、原因は何かなと。地方交付税という大変ありがたい仕組みがありますが、これが結果的には、さっき言った自主独立の気概を少し失わせているんじゃないかなという心配。
薩摩でも一緒ですよね。 それに比べて、現代の、殿様と言ったら失礼ですけれども、やはり非常に、何か昔に比べて居心地がいいんじゃないかなという感じがします。 これは一つは、原因は何かなと。地方交付税という大変ありがたい仕組みがありますが、これが結果的には、さっき言った自主独立の気概を少し失わせているんじゃないかなという心配。
私の出身は尾辻先生と一緒で薩摩で、大学に入るために初めて東京に来て隅田川に行ったときに、何と汚い臭い川だと思ったのを思い出します、もう五十年近い前ですけれども。それから考えると、本当に東京湾も変わったなと思います。 東京湾がどうなのか、そして一番きつい、厳しいという伊勢湾はどうなのか、もう一つは有明海、あれも似たような地形ですからね、どうなのか、説明してもらえます。
おっしゃっていただいたんですが、何で海の中を走っているかといいますと、当時、明治の政府といいますか、議会ができる前の状態で、合議制で国の方向を決めていたときに、非常に発言力のあった西郷隆盛は、これはもう軍備を強化するべきだということを強調して、一方、伊藤博文や大隈重信は、これからの近代化には鉄道だということで意見が物すごい対立して、最後は鉄道が必要だということで折れたんですけど、しかし、この高輪周辺は実は薩摩藩
まず一点目、鹿児島県におきましては、県道である川内串木野線が海に面しておりますけれども、豪雨による土砂崩れや高波で交通止めが度々発生していたところ、この特措法の支援を活用することで、黎明トンネルを含むバイパスが令和二年五月に完成し、これにより、薩摩川内市やいちき串木野市の住民千八百人の安全で円滑な交通が確保され、いちき串木野市の救急医療機関への搬送時間の大幅な短縮に貢献したと聞いております。
それはなぜかというと、明治当初、軍備の強化を訴える西郷隆盛さんと、それから、これからの近代化には鉄道が必要だという大隈重信さんや伊藤博文さん、こういう人たちの、言うなら対立、意見の対立の中で、最終的には鉄道の必要性も認めたんですけれども、しかし、当時、先生も御承知のように、あの品川一帯というのは薩摩藩の土地や軍部の土地がほとんどだったので、鉄道を敷くのはいいけれども、薩摩の土地は通さない、軍部の土地
特定有人国境離島地域である鹿児島県薩摩川内市の甑島列島につきましては、平成二十九年度以降、離島住民向けの航路運賃の低廉化、本土に輸送する芋類、魚介類等の農水産品に係る輸送費の支援、甑島での宿泊と体験を伴う旅行商品の造成等、滞在型観光の促進に係る支援のほか、空き店舗を活用した地元食材を提供する飲食店の創業や、キビナゴ加工場の設備導入等への支援等によりまして、雇用機会の拡充を行ってまいりました。
では、その尚古集成館、大変すばらしい施設であるんですが、そこが果たして海外に、明治維新というのは何だとか、幕藩体制、二百六十年続いたものが、どのように明治維新へと世の中が動いていったのか、そこにおいて、島津、薩摩藩がどのような役割を果たしたのか。そして、その中で、尚古集成館で展示されているもの等の位置づけはどうだったのか。これを海外に発信するというのは容易なことではないというふうに思います。
静沼というのがあって、これは薩摩出身の静夫人の名前。それから、松方別邸というのがあって、松方正義さんの別荘ですよ。今でも残っているのは、山縣農場といって山県有朋さんの別荘ですね。私が住んでいるところは大山巌さんの領地だったところ。私が生まれた町の中心部は永田町という名前なんですよ、大山巌さんが付けたらしいんですけどね。赤坂はありませんけれども、永田町は今でも残っています。
ちなみに、一七一五年、三度目の焼失の後再建されたときには、沖縄在来のイヌマキと薩摩からの杉やヒノキを材料としておりました。 首里城の復元、再建には、樹齢八十年以上のヒノキなどの木材が百本以上、大量に必要となるという話も伺っておりますが、今、国内にどれだけの木材、材料があるのか。 林野庁の見解をお願いします。
明治十年二月半ばでございますけれども、薩摩の西郷軍が二万五千人の大軍を率いて熊本に迫っているという情報が広がりますと、熊本城下は騒然となります。そのような中で、二月十九日午後三時前ぐらいでしょうか、突然、熊本城天守閣から火の手が上がります。当時十歳でありました石光真清がその光景を後に手記として書き、そして遺族の方がその手記を昭和十八年に書物として出版をされました。
ところが、これは、北海道から薩摩半島沖、奄美、沖縄まで至りませんが、あの辺まで全部あるんですね。全国にあるんですよ。根室のあの辺と沖縄のあの辺、南辺りはないんです。ですが、ほぼ全国的にこれがあると。 しかも、一年草というのか一年木、一年で、何というんですか、自然に、シャケなどと一緒で、一回抱卵、産卵すると木が死ぬんですよ。一年でそれを行う。それで、切れて浮いてくる状態になる。
六八年が明治元年ですから、その前年に、幕府、それから薩摩藩、佐賀藩、これが初めて参加をしておりまして、開催国の国威発揚を兼ねて元気で頑張った、こういう記録が残っております。 いずれにいたしましても、今までの万博は産業の展示会でありました。
これ、歴史的にも面白いのがありまして、ちょっと紹介しますけれど、薩摩藩に小松帯刀という若手の家老がおったんですね。
薩摩というのは九州の鹿児島県の一部を示す地名でございますが、それと芋。これはまさに地名と商品名を組み合わせておりますが、ただ、これはもう一般名称としてサツマイモというのは、全国で生産もされて販売もされているということで、一般名称化しているという判断をされているのかと思います。
国税庁におきましては、蒸留酒につきましては壱岐、球磨、琉球、薩摩、それから清酒については白山、山形、灘五郷、果実酒については山梨、北海道の個別地域の地理的表示を指定しているほか、清酒につきましては、日本産ブランド価値の向上や輸出促進を図るため、国レベルの地理的表示として日本酒を指定しているところでございます。
現在、EUで保護されるGIとして壱岐、薩摩、球磨などありましたけれども、日本酒との記載もありました。 日本酒はいろいろな銘柄でも適用されるのでしょうか。
このテロ対処施設が、設置期限が、五年の期限が来るのが、一番早いところで薩摩川内ですね、原発が平成三十二年までにこの施設をつくらなければならないということで、三十二年、三十三年、三十四年にその期限が集中しているわけです。もし仮に、これはかなり難工事でありますので、五年以内に完成しなければ、このプラント本体も運転を停止することになるのか。
また、南海トラフ地震の津波の襲来が予想される、また房総沖の地震も予想されておりますけれども、房総半島の特に太平洋側、また、神奈川県の三浦半島、愛知県の渥美半島、知多半島、三重県の志摩半島、鹿児島県の大隅半島や薩摩半島などでも高速道路がほとんど計画がされておりません。また、静岡県の伊豆半島、伊豆縦貫自動車道の建設は予定されておりますけれども、まだ進んでいないという状況と聞いております。
少し具体的な支援の取組の状況に移るんですけれども、私の地元の兵庫県尼崎市というのは鹿児島の出身の方が大変多い地域でございまして、例えば薩摩川内市の甑島、こういう離島地域の出身の方も大変に多い地域ということで、県人会というか、郷友会というか、そういう地元の出身の方の集いというのに私もいつも参加をさせていただいております。
先生お尋ねの藺牟田瀬戸架橋の整備につきましては、鹿児島県薩摩川内市の下甑島と中甑島を結ぶ、延長五・一キロメートルの一般県道鹿島上甑線、藺牟田瀬戸架橋工区という名称で、事業主体の鹿児島県が国の社会資本整備総合交付金を活用し、推進してございます。 これにつきましては、平成十八年度から事業に着手し、これまで三本のトンネルが全て概成しております。
○中野委員 こうした、実際に避難計画などをつくって訓練などもやっていきますと、どうしても避難路の確保というのが非常に問題になる場合もございまして、例えば、私が先日お伺いしたのは、川内原発のある薩摩川内市の方で、例えばPAZの圏内の避難道路、維持更新をしていかないと、やはり将来に備えないといけない。
薩摩や長州を中心にした日本の指導者たちが選んだ国家統治の方向性は、新政府のもとに権力を集中させて、外部からの脅威に対峙し、列強に伍していく体制をつくること、富国強兵を可能にする中央集権制度であったと思うのです。 戦後、新しい憲法になったにもかかわらず、当時の明治憲法の中央集権体制が、現代日本の地方自治の現実の中に色濃く残っているように思います。
戊辰戦争以来、新政府軍を率いる薩長土肥、薩摩、長州、土佐、肥前側が東北地方を卑下して言った言葉でもありますが、こういう精神が百五十年たった今もまだ残っているのではないかと危惧している人たちがいる。 これは新聞報道にもございました。愛媛新聞の朝刊でございます。宮城の仙台市の出版社の代表である土方正志さんが、今回のこのような東北蔑視の心というのはまさに平成の白河以北一山百文だと表現されています。